花岡胡椒とは
花岡胡椒は,鹿屋市花岡地区で栽培されている唐辛子。(鷹の爪群)
九州では唐辛子を一般的に「こしょう」と呼んでいた。
強い香りとまろやかな辛さが特徴。鹿児島県の伝統野菜にも登録されている。
害虫や害獣が寄りにくく、栽培しやすいが「収穫が大変」。1本の木に百個ほどがまばらに実るため、まとめて摘めない。1時間で1.5Kgほどになる実を一つずつ手で摘み「その手で顔を触るとヒリヒリ。」
収獲した実は、変色やカビを防ぐ管理を徹底。
約1カ月かけて天日干しする。乾燥後、半分以下の重さになった実を、さらに濃淡で色分けする。そこでようやく出荷できる。
この手間が、過去に廃れた一因ではないかと推測される。
花岡胡椒物語
その昔、花岡村に伊藤民十郎という村長が神戸の貿易商から教えられて種子を持ち帰ったのが始まりとされている。
明治から戦後にかけて花岡地区で栽培され、最盛期は120ヘクタールの作付けがあった。
アメリカやイギリスにも輸出され、高い評価を得ていたが、収穫や乾燥に手間がかかるため栽培農家、生産量ともに減少していった。
現在は、市販品種と交雑しないように絶やしてはならないと守ってきた種。
今ここに『花岡胡椒』が半世紀ぶりに復活したのだった。
ちなみに花岡ってどんなところ?
ここ花岡地区は鹿児島県鹿屋市の北西部に位置しており、花岡郷はもともと大姶良郷の一部であり、花岡島津家の創設にともなって花岡島津家の私領として分け与えられた。この墓地は、花岡島津家の初代「久儔(ひさよし)」から9代「久基(ひさとも)」にいたるまでの墓です。
島津家22代の継豊(つぐとよ)公が1724年(享保9)、叔父の久儔(ひさよし)に大姶良郷木谷村(おおあいらごうきたにむら)と野里村(のざとむら)の一部を一郷(いちごう:当時村をいくつか集めた集落のこと)としてあたえ、花岡と改名しました。
「久儔(ひさよし)」から7代「久敬(ひさたか)」にいたるまでの145年間、薩摩藩の外城(とじょう:当時の薩摩藩の行政区画のよび方)としての役割を果たしました。
特に、2代「久尚(ひさなお)」の妻、岩子夫人は私財を投じ、花岡用水路をつくったことで有名です。
1871年(明治4)廃藩置県(はいはんちけん)によって鹿屋郷、大姶良郷、花岡郷、高隈郷が制定されました。
1888年(明治21)に市町村制が公布されると、肝属郡鹿屋村、大姶良村、花岡村、高隈村と呼ばれるようになりました。
1913年(大正2)に鹿屋村が鹿屋町になり、翌々年の1915年(大正4)には高須~鹿屋町区間に鉄道が開通しました。
この鉄道は1920年(大正9)には鹿屋~高山、1921年(大正12)には高須~古江までのび、鹿屋はますます発展していきました。
江戸時代
江戸時代薩摩藩では、島津氏が領主として薩摩藩を治めていました。藩内は薩摩藩独自の外城制度により支配され、鹿屋地域では鹿屋郷・高隈郷・大姶良郷・花岡郷の4つ、吾平地域では姶良郷、輝北地域では百引郷・市成郷の2つ、串良地域では串良郷が設置されていました。各郷は地頭と呼ばれる役人によって治められ、地頭が居住する場所を地頭館・地頭仮屋と呼んでいました。
また、花岡郷と市成郷は島津本家の分家である、花岡島津家と土岐家の私領となっており、地頭は置かれず、領主が直接治めていました。
また、江戸時代の中期になると、全国的にも珍しい「田の神像」が市内各地に造られ始め、また民衆の信仰を物語る観音像や庚申塔なども造られています。
鹿屋市内にはこの時代の史跡などとして、花岡島津氏歴代墓地や笠野原土持堀の深井戸、中津神社本殿、田の神像、観音像、仁王像など数多く文化財などが残されています。
花岡島津氏歴代墓地(市指定)
花岡島津家は、1724(享保9)年に大姶良郷のうち木谷・白水の2村を分割して、島津久儔に与え、一所持としたことから始まりました。島津八家の内、御一門四家に次ぐ家格であり、普段は鹿児島市内の鶴丸城下に居住し、領地の視察などの際に仮屋(現鶴羽小学校敷地)に滞在していました。
墓地には、初代から9代までが埋葬されており、男女で墓石が区別されるなど、学術上大変貴重な史跡です。